Dirty Dancing






Dirty Dancing 

1987
監督 エミール・アルドリーノ
出演 パトリック・スエイジ
   ジェニファー・グレイ
   シンシア・ローズ


※レビューを読んでから映画を見てもたぶん面白くない。

※未鑑賞の場合、以下の閲覧は躊躇することをすすめる。


バカンスに山荘を訪れたアメリカ人の女の子と山荘のお抱えダンサーの恋物語。

最愛の人はパパという箱入り娘がダンスを通して人の業を知り性を知り成長する。


63年のアメリカ。

ビートルズもケネディ暗殺も先のころの話。

だそうだ。

豊かなもんだ。



見どころはダンスシーン。

シンシアローズとパトリックスエイジのダンスシーンが

キレキレで眩い。

スエイジの腕を支点にローズの上半身が逆V字を描く。

風を切って放たれる美しく、しなやで強靭なバレット。

だが弾道の先には決して射抜かれることのない厚い胸板がある。

胸板がバレットのすべてを容易く揺るぎもなく華麗に受け止めると、

リードを受けたバレットは蜂と化し、蝶と化し花とも化す。

二人のステップがフロアを席捲する。

彼らが熱源となってフロアは狂おしくアドレナリンの塊へと昇華していく。

ビートに乗せて肉体が躍動する。

脚線の美しさ。

卑猥を貫いてセクシー。

エロスに加えてかっこよさを難なく獲得している

ダーティなダンシング。

社会的にヒエラルキーを下るほど、肉体的な表現が本能に忠実になる。

よりシンプル、より直截的となるってか。

ヒエラルキー?

回すと火が付くんだろ。








ベイビーは外股だ。

つま先は内側を向いていない。

つま先は外へ向いている。

つま先を外へ向け胸を張りスタスタと歩く。

外股の女の子にはハートがある。

ためらいがない。

関係者以外立ち入り禁止エリアを探索することをためらわない。

尻軽男の股間に水をぶっかけることをためらわない。

堕胎するためにショーに出れないダンサーの代役を務めることをためらわない。

急病人のために夜中、医者の父親を叩き起こすことをためらわない。

化粧を落として眠りなさいという父親の言葉に従わず、より入念に化粧を施して男に会いに行くことをためらわない。

年上でたとえ自分のキャリアが及ばなくても、男がだらしがなければ、

゛あと二日しかないんだからまじめにやれ。”

と啖呵を切ることをためらわない。

外股の女の子は

世界を変えるのだ。

肉体的にマッチョなのはジョニーだが、

精神的にマッチョなのは

ジョニーではなく、ベイビー。

ジョニーはダンサーである自分自身にコンプレックスを抱いている。

そして雇われの身である彼は

常に首を切られることを恐れている。

ベイビーにはそれがない。





パトリックスエイジの魅力が炸裂している。

映像中、彼は結構な割合で上半身が裸。

引き締まった筋肉を無造作にスクリーンにさらけ出している。

この作品は低予算にもかかわらず爆発的にヒットしたらしいが、

明らかに彼の肉体美がそれに大きく貢献をしている。

世界中の女たちがスエイジの胸板に熱狂したというわけ。



年上のワイルドでかっこよくセクシー、だが世渡り下手で不器用な男。

私は彼によって変えられ、彼は私によって変わっていく。

親の庇護から逸脱するも理解力のある優しく紳士的なパパとは最後には仲直りする。

ここには女の子が一度は夢見、憧れるようなシンデレラストーリーがあるんだろう。




ひと夏のロマンスにピリオドを打ち

互いにサヨナラを告げた後、

フェアウェルパーティーの最後のショーの途中で、

もう現れないかと思われたジョニーが

颯爽と姿を現す。

彼が壁を背にして席に座るフランシスに


"Nobody puts baby in corner.”


と言いながら手を取って、共にステージに上がる時

オーディエンスの胸の鼓動は急激に高鳴る。

ときめきがクライマックスを迎える。

そしてベイビーはペニーの代わりに出演したショーではできなかったリフトを成功させる。


素晴らしき大団円。




パトリックスエイジは確かにハンサムだ。

だが、彼は整っている、綻びがないという類の華奢なタイプのハンサムではない。

彼のハンサムを支えているのは強靭かつセクシーな肉体であることは間違いないが、

特筆すべきはその雰囲気だ。

でかい鼻、あご、鋭角的なほほのライン、

眼力の強さ、鋭さ。

彼からは

男らしさ、孤独、誠実、危うさといったものが混在する一風独特なオーラが放たれている。

すでに鬼籍に入っている名優。


ラストシーンでトリプルアクセルを決めるんだが、

まーかっこええ。


ジェニファーグレイはブロンドで目鼻立ちがはっきりしていてかわいい。

大口あけて笑う愛嬌にもとても好感が持てる。

彼女が

かわいいから綺麗、綺麗から美しいへと変遷していく姿は見ていて心地がいい。

目の保養なんてという陳腐な表現は通り過ぎる。

見惚れる。

だ、

けれ、

ども、

個人的な好みでいえば、

ゴーストのデミムーアに軍配が上がってしまう。





Be my baby で幕を開け、time of my life で終わる音楽。

流れる音楽に合わせ橋の上で一人ダンスの練習をするシーン。

丸太の上で2人が素足で踊るシーン。

湖でリフトの練習をするシーン。

足元だけを写す描写。

シューズの黒と白のコントラスト。

映像と音楽がばっちりハマっている。

監督は同性愛者らしいが、

それはどうでもいい。

流れる音楽、映し出される映像から美的な物事に対する高度に洗練された感覚がうかがえる。

この映画が時を経ても朽ちない輝きを放つのは美というものが時代によって左右されるような薄い概念ではないことをよく証明している。


基本的には

ダンスをテーマにしたラブストーリーだが、

労働者階級の悲哀だったり、

湖畔で涙を流すお父さんの後ろ姿だったり、

感じのいい老夫婦が実はクセモノだったり、

見どころは多い。

SFXなんてもんはひとつもないが

十分人を感動させることができる。






この映画はナタリーポートマンがフェイバリットとして挙げている。

彼女は最先端の今を生きる多くの女性の中で最も美しく、賢く、ハートがある女性の一人だといえるが、

彼女の情操の深いところでこの映画が多大な影響を及ぼしているとするならば、

未来、この世界に虹をかけるべき女性の一人でも多くがこの映画に触れる機会が訪れることを切に願ってやまない。


そうして、

啓かれた女たちにより嵩上げされるだろう将来的な経済効果は、

日本を、ひいては世界をもまた救うだろう。

そのための手段としては、

各自治体はどのレンタルショップにもこの映画を一本は必ず常備するように新しく条例を設ける必要がある。

近隣の5、6件のレンタル屋の中でこの作品があったのはただの一件にすぎないという現状は致命的ともいえる文部科学行政を司る役人どもの失態だといえよう。


責任を取って事務次官は更迭されてしかるべきだ。


もはや、ただ飯を食わせるためにおびただしい血税が彼らのために捻出され続けることは罪だといっても決して控え目ではない。





世界を変える女は美しい。

美しさと知性と愛情を持った女たちの手によって

世界が新しい色彩を帯び始めるならばそれはとても喜ばしいことだ。

女だけでなく多くの男たちもまたこの映画を見て、女の扱い方を学び、

スエイジのような厚い胸板の存在意義について多少考察する機会を持つのはいいことかもしれない。

嗜好が多様化し、マッチョな男が筋肉自慢のナルシストと同義で語られるきらいさえある現代においては、はと胸主義も大いに結構である。

ただ世界を変えるような女傑たちが放つ華麗なバレットは時にとてもデンジャラスだ。

ためらいがない。

たとえ、はと胸主義者であったとしても彼女たちを守るためには基礎的な体幹トレーニング程度は積んでおくべきだろう。

そしてためらいのない並外れた勇気ある行動の裏に

数多くの越えてきた涙、葛藤、死線とも言っていい、

があるだろうことを察することができるセンシティブな感性は育んでおくべきだろう。


べつに女尊男碑を推奨しているわけではない。

男には備わっていて、女には備わっていないものがあるし、

逆もまたしかり。

さらに言えば、

未来は女だけで切り開くことができるようなシロモノではなく男の存在もまた不可欠だから。


変革には痛みが伴う。

この胸板で弾丸程度の痛みならば甘く受けよう。

なぜなら

美しく、賢く、魂のある女性はこの星の宝物だから。















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